底辺に生まれたアーティストの物語〜聖書〜

仕事を終えると、私は地下鉄ピカデリーラインに乗り、グリーンパーク駅でジュビリーラインに乗り換える。


ヒースローターミナル2・3駅からグリーンパークまでは1時間近くかかるのだが、大抵は同僚の誰かとお喋りしながら途中まで一緒に帰るので、退屈することはなかった。


ロンドンヒースロー空港内の日系航空会社のオフィスが、私たちの職場だった。
日本行きの最終便が成田へと飛び立ち、仕事を終えると夜9時を過ぎている。
地下鉄通勤組とマイカー通勤組は半々だっただろうか。


愛想の良い私は誰とでも誘い合わせて一緒に帰ったが、新スタッフとしてヒロさんとソヨンさんが入社すると、彼らと帰るようになった。


ヒロさんは当時30代半ばの、「真面目で優しい」を絵に描いたような風貌の日本人男性で、イギリス人の妻と日本で出会い結婚し、神学校に留学中だった。
学生をしながら生活のためパートで働き始めたのだ。


ヒロさんと同時入社のソヨンさんは在日韓国人3世の女性だ。
30歳少し手前で、イギリスでの在留資格と労働許可を得るためイタリア人男性と偽装結婚をしていた。


日本に帰りたがらない妙齢の女性が適当なイギリス人やEU圏の男性を捕まえて結婚している例は少なくなかったが、「私は日本に帰りたくないから偽装結婚しているの」と悪びれることなく言い放つ知り合いはソヨンさんだけだった。

ソヨンさんのシニカルさは底意地の悪いイギリス人でも閉口するほどで、彼女の話は時に笑えないほど黒々しかったが清々しくもあった。


女性ばかりの職場でヒロさんは浮いており、ソヨンさんはその性格が元で敬遠されていた。
けれど私は心優しいヒロさんと、口は悪いが裏はないソヨンさんが好きだったので、3人で一緒に帰るのは楽しかった。


日本のこと、イギリスでの生活のこと、韓国人の家族のこと、仕事のこと、ソヨンさんはいつも何かに文句をつけているようで、それをいつも口元に穏やかな笑みを浮かべているヒロさんが聞いていた。


ソヨンさんが先に乗り換えの為ピカデリー線を降りるので、その後は私とヒロさんが二人になるのだが、いつも笑顔で人の話を聞いてばかりのヒデさんが、その日は珍しく私を相手に自分の過去を語り始めた。


「僕はね、恵まれた環境にある人が、どうしてあんなに文句があるのか分からないんだよ。羨ましいなぁ。


僕ね、施設で育ったんだ。
父親は誰だか知らないし、母親には4回しか会ったことがない。4回目は彼女のお葬式。


僕の母は身体障害者で知的障害もあり、自分で子供を育てられなかった。妹で、僕の叔母にあたる人が母の面倒を見ていたんだ。


叔母は母を引き受けるだけで精一杯だったから、僕の育児まですることはできなくてね。
だから僕は生まれた直後から施設に託されて、交流は無かったよ。


施設の暮らしは楽しかったなぁ。
兄弟が大勢いるみたいなんだよ。
15歳までそこで暮らした。


けど、義務教育を終えたら出て、自力で生活をしていかなくちゃならない。
施設を出た僕はアパートを借りて、昼間は工場で働きながら、夜間高校に通った。
毎日仕事で疲れているから、高校に通うのはきつかったよ。
でもね、それよりも辛いのは淋しいことだった。


施設の生活はいつも賑やかで、ご飯は大人数で一緒に食べるんだ。
いつも誰かと一緒だったし、一人で食事をしたことなんてなかったのに、施設を出てからはずっと一人。
いつもチキンラーメンに卵を落として、鍋のまま食べてた。


お金がないから、部屋にはちゃぶ台以外の家具もない。
西向きの窓にカーテンもつけられなかった。


ある日、チキンラーメンの鍋をちゃぶ台に置いた瞬間、目の前の窓から西日がぶぁーっと差してきてね。部屋が夕焼け色に染まった。


そしたら、それまでずっと我慢してきた孤独感がぐぁーっと溢れてきて、ぼたぼた涙が落ちて、止まらなくて…。


その時ね、隣に赤ちゃんが生まれたばかりの若い夫婦が住んでたんだよ。
僕はぐちゃぐちゃに泣きながらラーメンの鍋を持ってそこんちのドア叩いてね、


『僕は隣の部屋に住んでいる者です。あの、すみませんが、僕は自分のご飯は自分で持ってきたので、夕食を一緒に食べてもらえませんか』


って言ったんだ。
二人ともすごく驚いてたけど、『いいよ、よく来たね。入りな』って、中に入れてくれてね。
それからは彼らが引っ越すまで時々一緒にご飯を食べてくれた。


だけど、僕は結局自分を持て余して、道を外れてしまったんだ。
バーテンとして働き始め、夜の世界で悪い友達ができて、日々をただ面白おかしく過ごし、そのうち手を出すべきでないものに手を出して…」


私は目の前のヒロさんが、都会の夜の闇に生きていたというイメージがまるで掴めなかった。
けれど、話を聞きながらヒロさんの横顔を見つめ、耳たぶにピアスの穴の痕がいくつも在ることに初めて気付いた。


「僕はいつの間にか悪い連中の仲間になってた。その頃に絵を描き始めて、仲間やお客さんたちに上手いと褒められていたんだ。でも素人だから限界があった。


そんな生活の中で、だんだん体も心も生活もボロボロになって、もう死ぬしかないと思いつめて歩いてた時に、たまたま道沿いにあった教会へ入ったんだ。


そこで僕は救われた。
懺悔を聞いて下さった神父様に、僕を許して下さる神に、そして、教会で出会った妻に、……助けてもらったんだ。


妻に出会えたこと、それが僕の人生の1番の幸運であり幸福だった。
彼女は僕を支え、僕に家族を作ってくれた。彼女が居なかったら今の僕はないよ」


「ヒロさんは絵を描いてるんだね」


「僕は画家になりたいんだ。今は学校で油絵を描かせてもらってる。ゆきちゃんも絵が上手いね」


「私はこれでも一応は美大を出たから」


「ぼくも美大に行きたかったよ」


生い立ちを語る穏やかなヒロさんの目に影はない。
ヒロさんは誰かを責めてる訳じゃない。


それでも、苦労らしい苦労を知らずに生きてきた自分が恥ずかしいような、そのような生い立ちにも関わらず人生を立て直したヒロさんが手の届かないほど眩しいような、私は何だかよく分からない気持ちに打たれて、何も言えなかった。ヒロさんは微笑んでいる。


もうグリーンパーク駅に着く。
その日はヒロさんの描いた絵を見せてもらう約束をして手を振った。


それからしばらくして、私たちは仕事帰りに空港ターミナル内のカフェで待ち合わせた。
約束通りヒロさんは作品の写真を収めたファイルを持ってきてくれたのだ。


店内に入る時、ヒロさんはしばらくモジモジした後、意を決したようにすぅっと息を吸い込み、力を込めて「今日は僕が奢ってあげるね」と申し出てくれた。


ヒロさんは苦学生だ。第二子を妊娠中の妻と幼い息子が居る。
日頃は1ペンスの小銭も無駄にしない切り詰めた生活をしていることを知っていたが、私はヒロさんの気持ちがとても嬉しかったのでお言葉に甘えることにした。


頭上のメニュー表を見上げ、一番安いアメリカンコーヒーを注文した。
私は普段コーヒーを飲まない。


二つのアメリカンコーヒーのトレイをテーブルに置いて席につき、彼の作品集を広げた私は彼の生い立ちを聞かされた時以上に驚き戸惑った。


ヒロさんの描く絵はどれも血に濡れた髑髏(どくろ)が積み重なる地獄絵図だったのだ。
最新作であるという自画像も暗く、陰惨という以外に表現すべき言葉がない。


いつも暖かく微笑んでいる、真面目で優しいヒデさん。
外側はきれいに見えても、ヒロさんという木は幹の芯まで腐ってしまったのだということが、作品を通して理解できた。


支えを得てなおヒロさんは回復の途中なのだ。
自分の中に抱えた腐りきった過去と気持ちを外に出しきるための浄化作業が「描く」という行為なのだろう。


ご馳走になった飲み慣れないコーヒーは色んな味がして、一口飲み下すごとに心に染みた。


それからあまり間を置かず、ヒロさんは唐突と思えるようなタイミングで仕事を辞めた。
日本に帰国するという。


突然の別れから15年の月日が経った頃、私はネットを通じてヒロさんの消息を知る。
日本に帰国した彼は念願だった芸術大学に入学を許され、彼の世界観を表現するために必要だった絵画の技法を体系的に学び、それを極めてオリジナルの技法を編み出し、イギリスに戻って画家として成功していた。


高い評価を得るようになった彼の作品は、私の知るヒロさんに相応しかった。


現在の彼の作品は精緻で、繊細であり、対象を捉える視点は優しく、しかし憂いがあり、色使いは柔らかく、温かみがあった。ヒロさんはやっと自分にたどり着いたのだ。


彼の作品は現代的な宗教画であり、幹が腐っても根は枯れなかった人のたどり着いた境地なのだ。この世には地を這ったからこそ咲く花がある。


私自身は信仰心の無い人間で神の存在は信じないが、神の慈愛を信じる人間の創り出す芸術にはいつも心打たれる。


人は不幸に溺れている時、誰かがやってきて引っ張り上げてくれない限り、いつまでも光が見えないことがある。
そんな時によすがとなるのが宗教だ。


今の世の中には宗教の形をとったロクでもない団体や、宗教ですらないのに救済をうたい人と金を集めるスピリチュアルやマルチが横行しているが、運悪くそれらの罠にハマった人たちは救われるどころか一層深い闇の中で生き惑うことになる。


そんなことになるくらいなら、キリスト教でも仏教でもいい。
ヒロさんのように歴史ある宗教の門を叩いてみてはいかがだろうか。

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マダムユキ
ネットウォッチャー。最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
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