それは和華子さんがお亡くなりになる1年前のことだった。
「貯金らぁするような男には『りょううん』がつかんぞね」
りょううん?りょううんて何だ?
私は和裁教室で祖母の古い着物を縫い直しながら、和華子さんと先生のお喋りに耳を澄ませていた。そして、お二人が使う「りょううん」という言葉の意味が捕らえられずに、首をひねった。
和裁師の先生は79歳で、和華子さんの正確な年齢は覚えていないが、73歳くらいだっただろうか。
お二人は生き方こそまるで異なるが、同世代で、それぞれ漁師町の生まれであることから気が合うらしく、「和華ちゃん」「先生」と呼びあいながら、いつも楽しそうに昔話に興じていた。
そこは和裁の技術を習う教室というよりは、すでに人生をリタイアした主婦たちの社交場だった。
生徒のほとんどは先生と同世代であり、お喋りをしながらのんびりと針を運んでいる。
何枚縫ってもちっとも手順を覚えないし、上達もしないのだと笑っていたが、ご婦人方はそもそも縫い上げた着物に袖を通す気もないようだった。ただ出かける場所とお喋りの相手を求めて、遠方からでも通ってきているのだ。
ご婦人方の中でも特に和華子さんはお喋り好きだった。そして、とてもお話上手でもあった。
人生経験が豊かで社交家の和華子さんは、話の引き出しが多い上に頭も良いので、ついつい耳を傾けるうちに引き込まれてしまう。
和華子さんの口から語られる半世紀以上も昔の高知と人々の暮らしの様子は、その時代のことを何も知らない私にとっては新鮮であった。
男の人らは漁へ出るろう。魚がぎょうさんとれて大漁やったら、大漁旗を振りもって帰ってくるがよ。
帰ってくる前には東京へ寄って、銀座で遊んで、高知へ戻ってからはお街のお姉ちゃんらと遊んで、それからやっと家へ帰ってくる。
大漁の時はすごかったねぇ。御近所さんやら親戚にもパッパパッパお金を配って、自分の家も大きゅうして、大盤振る舞いよ。
けんど、魚がとれざったら、家のものを何もかも売り払わんといかん。もう博打みたいな生活やった。
そんな風に、和華子さんは自分の子供時代を語った。漁師町で育った和華子さんは、父親もやはり漁師だったのだ。
当時の日本は遠洋漁業が盛んで、高知の漁師たちもマグロを追いかけていたという。造船所もあったことから、海辺の町は栄え、富裕な家も多かったと聞いている。
和華子さんの父親は、大漁旗を頻繁に振って帰ってきた人だったのだろう。
それが証拠に、和華子さんの二人の姉は高校卒業後に東京の専門学校へ進学しており、和華子さん自身は中学から土佐中高等学校へ通い、卒業後は関西にある外語大学へ進学している。
土佐校といえば、高知では英才教育を施す私学の雄で、昔は男子学生を偏重しており、入学を許される女子は少なかった。
私学の授業料が高いのはもちろんのこと、漁村から高知市内の土佐校へ通うのでは交通費も馬鹿にならなかったと思われる。
あの時代に女子でありながら教育にお金をかけてもらえた上、高校卒業後も親のお金で都会の大学まで行かせてもらえるケースは、高知ではかなり珍しかったはずだ。
女性の高等教育が重視されなかった時代に3人の娘たちを全員都会へ進学させて、学費と生活費を払った和華子さんの父親は、先進的な上に頼もしい。
しかし残念ながら、和華子さんの結婚後に実家は没落してしまったという。
オイルショックと200海里水域の設定により、遠洋漁業によってもたらされた繁栄の時代が終わったのだ。
「大漁の時にはばらまく程の大金が稼げるがやったら、そういう年にちゃんと貯めておけばえいのに、どうしてそうせんかったがですか。
お金がある時に貯めておけば、不漁の年でも生活に困ることにはならんやないですか」
と、私が素朴な疑問をぶつけてみたところ、和華子さんと先生の二人から、貯金をする男には「りょううん」が付かないと返ってきたのだ。
「りょううん」とは、どうやら漁の運と書いて漁運らしい。
お金をある時に貯めるらあて、お山の人らの考え方よね。お山へ住みゆう人らぁは蓄える暮らしをしゆうけんど、海の男やったら、それでは成功できんぞね。
そういう先のことを考えて、お金もちゃんと貯めるような男には漁運がつかんき、漁へ出たちひとっちゃあ魚がとれんがよ。そうやき、ちっとも稼げんまんま家が潰れてしまう。
ねぇ、先生。そうやったでねぇ。
稼いだお金はその年にみな使い切ってしまうような豪気な男じゃないと、魚は見つからん。
考え無しの男の人は漁へ出て、例え長いこと魚が見つからんかっても、引き返さんずつ先へ先へと進んで、ついには大群に出会って大当たりする。
けんど先のことを考える男の人は、ギリギリのところで一か八かの賭けに出ることはようせんろう
漁は沖へ出る日数が長くなるほどコストが嵩み、成果のないまま先へ進み続けても、何も得られなければ赤字ばかりが増えていく。
損失を最小限にするために引き返すのか、それとも魚影を求めて更に先へと進むのか決断に迫られた時、勝負に出る胆力があるかどうかが運を分けるだなんて、ベンチャー起業家の話みたいだなと思った。
また、漁運は漁師の家の女性が持っていて、それが家運を左右する場合もあるのだそうだ。
漁運を持つ娘が家にいた間は豊漁に恵まれていた船長が、娘が成長してお嫁に行くことになり、家を出ていった途端に全く魚がとれなくなってしまった例もあれば、漁運を持った女性をお嫁に迎えたことで、急に大漁を引き当てるようになった例もあったらしい。
漁師として成功するには豪気な男の胆力がものを言うという話と違って、こちらはなかなか掴み所がないが、和華子さんと先生がさも当たり前だという風に話すので、当時の漁師町ではそのように女が家の運を左右するものだと考えられていたのだろう。
漁師の家に生まれた和華子さんに漁運があったのかは分からないが、確かな運の強さを持った女性のように思われた。
和華子さんは暖かい季節は洋服ですごし、寒い季節になると普段着にも和服を着こなされるお洒落な方でいらした。
和装洋装どちらの服も上質であり、身に付けているジュエリー類はいかにも高価な品ばかり。
身なりの良さに加え、品がよく朗らかで、余裕のある物腰は、裕福であることの証だ。
ただし、和華子さんはただ夫に守られて平穏な人生を歩んだ奥様ではなかったようだ。
嫁いだ先は商家で、漁師ほどではないけれど暮らしが不安定な時もあったらしい。
また、議員も務めた夫君の度重なる選挙のサポートは、その度に身の細る思いであったそうだ。
しかし、和華子さんは穏やかに笑ってこう仰った。
けんど、私は神様を信じちゅうきね。そのお陰で、商売の先行きも、夫の選挙の当落も、全ては神様の思し召しやと思うて、どんと構えちょることができたがよ。そうやなかったら、不安に翻弄されてたまらんかったと思うわねぇ。
私はね、今の主人と一緒になって何より一番良かったがは、主人に信仰があって、私も信仰の道へ導いてくれたことやわ
和華子さんはクリスチャンだったのだ。和裁教室の後は必ず教会へ向かっていた。
和華子さんがまだお元気でいらした頃、私は長男が大学受験を控えており、落ち着かない心持ちでいた。
第一志望の大学へ入ってくれたら、などとあれやこれや希望を話す私を見て、和華子さんはさも可笑しそうに笑ってこう言ったのだ。
そんなこと考えたちしょうがないわね。子供はねぇ、思うた通りには育たんぞね。
親の思うた通りにはならんき。
子供は親の思うようにはならんし、子供の運命も親の思うようにはならん。けんど、神様がその子にとって一番えい道を進むよう全てを采配して下さっているんやと考えて、受け入れなさい。
そりゃ、親が行って欲しくて、本人も行きたい学校へ進むがが一番嬉しいろう。けんど、もし違う学校へ行くことになったとしても、それは、その子が一番輝ける道がそちらにあったということ。
だから親はがっかりせんと、本人もひねくれんと、与えられた環境の中で一生懸命やっていかないかんがよ
和華子さんも子育てにはそれなりの苦労があったらしい。今は成人した子供たちも孫たちも、やっぱり自分の思うようではないけれど、それを不満に思わず受け入れているそうだ。
私は信仰心を持たない上にひねくれた人間なので、「神様の采配」などと言われてもピンとこないのだが、和華子さんに説かれると、素直に「なるほど。そうだな」と納得した。
和華子さんは、名前の通りの素敵な女性だった。
教室に行けばいつも会える訳ではなかったが、和華子さんが来ている日は教室に華やぎがあって明るく、和やかにおしゃべりが弾んで楽しかった。
だから、彼女がある日を境にふっつりと姿を現さなくなってからは、教室がずいぶん静かになり、退屈に感じられるようになった。
訃報がもたらされたのは、それから何ヶ月後のことだっただろうか。
先生のお話によると、胃癌だったそうだ。
思い返してみれば、胃の調子が悪いせいか食べ物が喉を通らないと話していることがしばしばあった。
ご自宅から近くの診療所では逆流性食道炎だと診断されていたが、よくならないので大きな病院で検査を受けたところ、末期胃癌でもう手の施しようがないと分かったのだそうだ。
和華ちゃんのお見舞いに行きたかったけどねぇ、『先生来んといて頂戴』と断られて、よういかざった。
すごくお洒落な人やったでしょ。変わってしまった姿を見られたくなかったんやと思うわ。
寂しいけど、でも死に際も綺麗であの人らしいじゃないの。癌が分かるまでは元気やったし、分かってからは数ヶ月で、長引かんと旅立った。
突然、末期癌で余命わずかと言われたら、そりゃ本人も驚いたろうと思うけど、でもああいう人だったじゃない。神様の思し召しと思って、身辺の整理して、静かな気持ちで旅立ったんやないかしら
人生には、どうしようもないことや、どうにもならないことがある。
和華子さんの言っていた「漁運」や「神様の采配」というものは、そうした不可抗力に対して嫌でも納得し、苦渋の思いを飲み込み、心を鎮めて前向きに生きるために作られた思想であり、知恵だったのではないだろうか。
学校法人ノートルダム清心学園の理事長、渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」には、
「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。時間の使い方は、そのまま命の使い方です。自らが咲く努力を忘れてはなりません」
と書いてある。
和華子さんが仰っていたことと内容は同じだ。
私は今も、子供のことで苛立つことがあったり、口出ししたくなると、和華子さんの
「子供は思うたようには育たんぞね」
という言葉を思いかえし、一人胸を鎮めている。
【著者】マダムユキ
ネットウォッチャー。
最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。