「不倫や浮気とは違う、ポリアモリーを理解しましょう」論の解体

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「ポリアモリー 不倫」
「ポリアモリー 浮気」


この記事を開いたあなたは、こういったキーワードで検索してくださったのかもしれません。


どんなことにお悩みでしょうか。


「自分は浮気したんじゃなくてポリアモリーなんだって、どうしたら分かってもらえるかな」


「好きな人から“自分はポリアモリーなんだ”って言われた、理解したいけどどうしてもイヤだって思っちゃう」


いろんな方がいらっしゃると思います。


2019年現在、「ポリアモリー 浮気 不倫」で検索した結果のほとんどがこれです。

「不倫や浮気とは違う、ポリアモリーを理解しましょう」論。

中には、「不倫とか浮気とかいうのがもう古い価値観だ。伝統にとらわれない最新の価値観こそがポリアモリー。君も進化しよう!」くらいまでかっ飛ばしてる記事もあります……が。
本当にそうでしょうか?


アメリカで生まれ、「嘘も隠し事もなくみんなが同意している複数での恋愛関係」と定義され、日本にもカタカナのまま「セクシュアルマイノリティを理解しましょう」みたいな形で持ち込まれた言葉、ポリアモリー。


この記事では、「不倫や浮気とは違うポリアモリーを理解しましょう論」をていねいにひもといていきます。


「世間一般のみんなとは違って私はポリアモリー」っていう孤独感とか、「好きな人にポリアモリーだって言われたことを受け入れられない自分は差別主義者なの?」っていうモヤモヤとか、「自分がポリアモリーだってことをどうしたら恋人に受け入れてもらえるんだ」っていう焦りとか、そういうのを、整理するヒントに。


まずは、「いやいやポリアモリーとはいえ浮気だって不倫だってあるよ」という話からです。

誰とでも、ってわけじゃない 関係性の色々

ポリアモリーっていうと、こんなイメージを持つ人もいるかもしれません。「恋多き人」

けれど、「その人がポリアモリーなんだ」という考え方だけじゃなくて、「その人たちが結んでいる関係性がポリアモリーな感じだ」というとらえ方もあります。


「世の中がポリアモリーとそうでない人に分かれている」っていう話のほかに、「いろんな人がいる。その関係性がポリアモリーな感じだ(polyamorous relationship)」っていう話もあるってことです。

例えば上の図を、「Aさんという人がいる。Bさんとも、Cさんとも交際中で、三人全員、その状況に合意している」ってところだとします。


この状況で、BさんはAさん一人を恋人と思っているわけですから、自分という人間個人を「ポリアモリーな人」とは呼ばないかもしれない。


けれど、全体の関係性として「ポリアモリーな関係性」とは言えるよね、ということです。(まあ、本人が決めることですが)

ポリアモリーはまた、「誰でも受け入れなきゃいけない」みたいな話でもないです。
たとえば「この三人で愛し合っていくんだ。互いに嘘はつかない、隠しごとはしない」と決めたとします。


これは「三人での誠実なお付き合いをする」ということ。
この三人で決めたことを裏切るのは、浮気、不倫と言えるかもしれません。


現状「浮気とも不倫とも違うポリアモリーを理解しましょう」論が唱えられるのは、ポリアモリーな関係性にある人たちを指差して「あれはただの浮気だ、不倫だ」という人たちの声から身を守るためでしょう。


が、「ポリアモリー」は「誰でもいい」「なんでもあり」って意味じゃありません。
ていねいに訳すると「複数愛」。


それぞれの間に築いていく関係性を愛と呼ぶならば、気持ちを裏切ることを浮気、決めたことを破ったなら不倫と言ってもいいのです。外野じゃなくて本人たちが、だけどね。


続いてはより深く、「なんでそもそも恋愛は一対一でするものってことになったの」ってことを掘っていきましょう。日本列島の歴史を映す、日本文学をヒントに。

君に会いたいな……万葉集の世界

集落がある。男たちが共同小屋に同居し、女はそれぞれ自分ひとりの小屋を持っている。
男は女に会いにいく。……原始から古墳時代くらいまではそんなふうだったんじゃないか、と、遺跡や文献を研究して推理したのが、「日本婚姻史」を書き上げた学者、高群逸枝(たかむれ・いつえ)です。


この「きみに会いにいくよ」スタイルのことを、高群をはじめとした学者たちは「妻問婚(つまどいこん)」と呼んだりします。
文献を見ると、微妙に形を変えつつも奈良時代ごろに安定してきたようです。


奈良時代の和歌をあつめた万葉集には、「会いたいな♡」「待ってるね♡」みたいな歌がいっぱいありますね。
会えない夜は相手が誰といるのかわからないし、会えなくなったらおしまいです。

君といたいのに……源氏物語の世界

平安時代には、中国の影響を受け、「律令制」というルールの中で「家の代表はダンナ様(家父長制)」ということが決められます。
「家」「戸籍」「男が大黒柱」みたいな考え方は、この時代からのものです。


この頃の「源氏物語」をみると、光源氏、恋愛しまくりですね。
そんな中、光源氏が愛した女性・紫の上は「家を継ぐ子どもを産んでいない、自分自身も自分のお母さんも“本当の奥さん”になれない」と苦しみます。


同じ時期の「落窪物語」も、「継母にいじめられたわたしが貧乏な男のところへ無理やり嫁入りさせられそうになったけどお金持ちの王子様が助けてくれてハッピー!」みたいな話です。


「君に会いたいな」という本音の恋心が、「君といたいのに」って家の都合や世間体に阻まれるようになってきたのはこの頃のことでしょう。

君、恋は罪悪ですよ……「こころ」の世界

夫ひとり、妻ひとり、女性の愛人がたくさん。
このような源氏物語状態を、明治六年、明治日本政府は「新律綱領」という法律のなかで法制化しようとしました。


つまり、「夫と妻は家族だよ。夫の愛人も家族だよ。妻よりは一段階遠くにおくけど(二親等)、愛人は“妾”と呼んで、法律的にも親族だということにしよう」という決まりです。


一見、とんでもない男女不平等に思えます。


いい方に取ろうとすれば、「子どもが生まれるかどうかというプレッシャーが妻一人の肩に集中しないようにしよう」「女性がひとりで稼いで生きていくのは大変なんだから、どこかの家に入りやすいようにしよう」みたいな考え方もあったのかもしれませんが……とにかく、この「夫ひとり、妻ひとり、女性の愛人がたくさん」という法制度、専門用語で言う「一夫一婦多妾制」を、「やめよう。一夫一婦にしよう」と訴える人たちもたくさん出てきました。


そうした人たちの中には、思想家の福沢諭吉、初代文部大臣の森有礼、フランス民法を日本に紹介した政治家の江藤新平などがいました。


この時期の文学に、夏目漱石の「こころ」がありますね。「君、恋は罪悪ですよ」と言った先生は、自我と世間の狭間で苦しみ、やがて「明治の精神」とともに、自ら、滅びの道を行きます。


やがて、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」と定める、日本国憲法が成立。「代々続く家でダンナ様が嫁を迎えて後継ぎを産んでもらう」的な、専門用語で言う「家父長制的イエ制度」は、少なくとも法律の文章の上から、更新が始まっていきます。


「家が決める」のではない。
「親が決める」のでもない。
「法が決める」のでもない。


「何か大きくて力があるものに決められてしまうのではなくて、自分たち一人一人が考えて決めていこう」という、立憲民主主義的な理想が掲げられることになったのです。(まだまだ理想だなあ、と、個人的には思うのですが)


さて。


この「何か大きくて力があるものに決められてしまうのではなくて、自分たち一人一人が考えて決めていこう」という態度。人と人との関係に立ち戻ると、これですね。

決められない、決めていく

コツは3つです。


(1)人間を「ポリアモリーの人」と「ポリアモリーでない人」に分けない。
「自分は他の人と違うのかもしれない」と悩む人が、「ポリアモリー」という言葉に出会ってやっと安心できたなら、それはそれでいいでしょう。このことを、「自分で自分をポリアモリーと呼ぶこと」、専門用語で「アイデンティティを持つこと」と呼びましょうか。


しかし、自分以外の人間までもを「ポリアモリーの人」と「ポリアモリーでない人」の二つに分けてしまった上で、「恋人がポリアモリーの自分を理解してくれない」みたいになってしまうと……自分も相手もカテゴリの箱に入れてしまっている分、自分自身、相手自身が見えにくくなってしまいます。これを避けるには、こんな方法があります。


(2)ひらがなで書いてみる。あえて小学生の時の気持ちに戻ってみる。
「ぼくは、ななちゃんがすきです。ななちゃんも、ぼくのことがすきだといいます。ななちゃんは、ゆうくんとおつきあいをしています。ゆうくんは、ななちゃんのことはななちゃんがきめるんだよ、だから、ななちゃんがぼくとおつきあいするのをじゃましないよといいます。だから、ぼくは……」


ぼくは、わたしは、じぶんは。一人称はなんでもいいんですが、自分自身を主語にして、主語をでかくしないで、誰にも忖度しないで、難しい言葉を使わないで、小学生みたいに書いてみること。これで素直な気持ちが見えてきます。そうしたら……


(3)世間はいいから自分たちのこと。大切なのは、「わたしとあなたがどう思うか」だ
相手と自分の間で、丁寧に話し合っていきます。何が良くて、何が嫌なのか。それはなぜなのか。例えば世間一般に「浮気」と言うけど、世間はどうでも良くて、自分はその言葉をどう捉えるのか。恋とは何か。愛とは何か。もし子どもを育てるならどうするのか。(2)の小学生作文を思い出しながら、しっかり、相手とすり合わせていきます。


ここで意識したいのが、「批判=攻撃ではない」「理解=同意ではない」の2点です。どうしても感情が揺れがちですが、「あなたはこうしたい。わたしはこうしたい。じゃあ、わたしたちの間ではどうするのか」と、一緒に考えていく視点に立ちましょう。


「ポリアモリーは浮気や不倫とは違う」


こう唱えることは、家の都合とか、近代化したい思惑とかを背負い、「夫一人に妻一人が正しい愛の形ですよ〜」と宣伝する声に反論するためには有効だったのかもしれません。
この声に苦しめられる人たちが楽になるには、有効だったのかもしれません。


ですが……恋愛、結婚、浮気、不倫、ポリアモリー、いろんな言葉のその前に、人それぞれの心があります。


自分にとって、自分と愛する人にとって、何が良いのか。
国や世間に決められるのではなく、自分たちで決めることができるんです。
その生き方のための法制度がないなら、求めていくことができるんです。


牧村朝子(まきむら・あさこ)
文筆家。1987年神奈川県生まれ。著書「百合のリアル」「ハッピーエンドに殺されない」他。
メディア出演「NHKハートネットTV」「5時に夢中!」他。twitter:https://twitter.com/makimuuuuuu

Photo by Omar Lopez on Unsplash

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