変わりゆく香港と変わらない若者の自由な生き方〜欲望の翼〜

 

あの時一緒に映画を観に行った香港人の男の子は、なんて名前だっただろう。

顔は思い出せるのに、名前がちっとも思い出せない。

 

名前がないと不便なので、ここでは一先ず彼の名前をケイシーとしよう。

本名は中国名だろうけど、イギリスで香港人や台湾人は英語名を使うのが一般的だったから。

 

ケイシーは、私がロンドンで通ったアート系カレッジの同級生だった。

ハンサムではないけれど背が高くて、ヒゲなんて一本も生えなさそうなつるんとした顔と薄い体には中性的ななよやかさがあり、いかにもアート系の男子学生といった雰囲気を漂わせていた。

 

あれは、確かまだカレッジに入りたての頃だった。

私たちは学校のカフェテリアでお茶を飲みながら映画の話をしていたのだ。

当時の意識高い系学生は国籍を問わず映画をよく観ており、また意識高い系の若者がチェックする作品は同じなので、共通の話題探しに映画はもってこいのトピックだったのである。

 

ウォン・カー・ウァイ、パトリス・ルコント、北野武、ダニー・ボイル。

今にして思うとおかしいのだけれど、当時の「意識高い系」という属性だった私たちは、他人と違って個性的であろうとしながら、なぜ既に誰かが「芸術的」だとか、「最高にクール」だと高く評価した作品をみんなで一緒に観ていたのだろう。

自分たちと趣味嗜好や行動様式の違う人たちとは差別化を図りながら、仲間内ではみんな同じであろうとしていた。

 

そんな意識高い学生の一人だった私は、当時「恋する惑星」という映画がお気に入りだった。香港を代表する映画監督、ウォン・カー・ウァイのヒット作である。

この映画にはまた別の友人との思い出があるのだが、それはまた別の機会に語るとしよう。

 

私が「恋する惑星」が好きだと知ると、ケイシーはミニシアターのチラシを取り出した。

そこではちょうどウォン・カー・ウァイ特集が開催中で、「欲望の翼」「恋する惑星」「天使の涙」の3本が上映されるという。

彼もウォン・カー・ウァイ作品が大好きなのだそうだ。

やはり意識が高い者同士は好みが合う。

というより、みんな好みはだいたい同じだったのだから合わない方がおかしい。

私は「欲望の翼」をまだ観たことがなかったので、早速その日の夕方に上映される回に、二人で出かけることにした。

 

「欲望の翼」は、1960年の香港を舞台にした若者たちの群像劇だ。

繊細で傷つきやすく、生きるのに不器用で、反抗的で無鉄砲な主人公のヨディはアジア版のジェームズ・ディーンといったところ。

始末が悪いことに、その手の危うげで美しい男というのは悪魔じみて魅力的なのだ。

そして、魅力的かつ冷酷な男の薄情な愛は麻薬のように作用するため、彼の手にかかった女たちは眠れぬ夜と枯れぬ涙に苦しみのたうつことになる。

同時に、報われぬ愛に傷ついた女たちに寄り添う、優しい男たちの叶わぬ恋もまた切なくて哀しい。

 

しかし、ウォン・カー・ウァイの出世作と言われ、高い評価を受けた作品であったにも関わらず、私には映画の良さがさっぱり分からず退屈してしまった。

あの世界観を理解するには若かったのだ、と言いたいところだが、実は流れていく英語の字幕を理解しきれず、話の筋が掴めなかったため展開についていけなかったのだ。

 

例えセリフが追いきれず話がよく分からなくても「恋する惑星」は楽しめる作品なのだが、残念ながら「欲望の翼」は「恋する惑星」のようにオシャレでポップなサブカル映画ではなかった。

 

そのため、映画が終わった後にケイシーから、

 

「どうだった?」

 

と感想を尋ねられ、

 

「あまり好きじゃない」

 

と答えることになった。

すると、ケイシーは驚き、少し目を泳がせてから、

 

「話の意味、分かった?」

 

と聞いてきた。

 

「ややこしい物語の映画を英語の字幕で見るのは難しかったわ。実はストーリーが分からなかったの」

 

と、あの時どうして私は素直に白状できなかったのだろう。

心で思ったことと反対に、

 

「もちろんたちゃんと分かったわよ。その上でこの映画は好きになれないと言ってるの!」

 

と、怒ったように答えてしまった。

字幕を読めなかったと白状するのがそんなに恥ずかしかったのだろうか。

映画の中の主人公たちのように、若いって些細なことで傷つきやすくて難しい。

 

ケイシーはそれ以上何も聞こうとしなかったし、私の気が短い態度に気を悪くしたそぶりも見せなかったけれど、きっとがっかりしていたに違いない。

彼は元々「欲望の翼」を好きであり、「すごくいい映画だよ。きっと気に入るよ」と、カフェテリアで力説していたので、映画のどんなところが好きか、どのシーンが良かったかなどを互いに語り合いながら楽しく帰りたかったはずだから。

 

私は物語の流れを把握できないまま表面的にしか映画を見られなかったので、主人公ヨディの苛立ちがまるで理解できなかった。

無節操な女たらしで、自分から誘惑するくせに気に入らないとすぐ女を殴るところがただの嫌な奴にしか見えなかったし、ヨディの恋人役ミミも嫌いだった。

「恋する惑星」のフェイ・ウォンのようにキュートで可愛い人を好んだ当時の私には、ミミ役の女優の顔がひどくおばさんくさく見えて、好みに合わなかったのだ。

愛してくれないヨディへの恋情を募らせたゆえの激しさも、下品でガサツだと捉えてしまった。

 

その後の私は、ウォン・カー・ウァイ監督の新作が公開されるたびに必ずチェックしたし、「恋する惑星」や「花様年華」など、気に入った作品は飽きることなく繰り返し観たが、「欲望の翼」は面白くないと思い込んで二度と見ようとしなかった。

 

だが、あれから二十年以上の月日が流れた今、私は近頃ケイシーのことがやけに思い出されて、「欲望の翼」をもう一度見てみたくなった。

もちろん日本語の字幕付きで。

ケイシーの言っていた「話の意味」を、ちゃんと知りたくなったのだ。

 

果たして二回目に観た「欲望の翼」は、とても面白かった。

若者の傷つきやすさや生きづらさを描いた物語が色あせることはない。

何故ならどれほど時代と世代が変わろうとも、若者の繊細さと不器用さは変わることがないからだ。

 

20代初めの私にはオバサンぽくて下品に思えたミミ役の女優カリーナ・ラウも、40代半ばとなった私には情熱的で美しい若い女にしか見えなかった。

 

映画を見ている途中で、私は映画のエンディングを記憶違いしていたことに気がついた。

本当の母親を探してフィリピンに渡ったヨディが、遂に探し当てた母親を大邸宅に訪ねたはいいが、拒絶されて追い返され、振り向かずに歩き去るシーンを映画の終わりだと記憶していたのだ。

 

映画を見ながら1時間ほど経ったところで、突然ミニシアターでの記憶が蘇り、

「あぁ、違う。あのシーンが映画の終わりじゃない。そのあとでヨディは死ぬんだ」

と思い出したのだ。

 

実際に、ヨディが生みの母親に拒絶された後も物語は続き、最後に彼は死を迎えた。

ヨディを演じた名優レスリー・チャンが、映画が撮られた十三年後に香港のマンダリンオリエンタルホテルから身を投げたことを知っているので、いっそうヨディが儚く見える。

 

話は戻るが、学校でのケイシーは日本人の女子グループにすっかり溶け込んでいたので、その後も私たちはよく一緒にランチやお茶の時間を過ごしたが、彼が私を映画に誘うことは二度となかった。

 

今思い出してみると、彼は

 

「香港では日本人の女の子がすごく人気なんだ。日本人のガールフレンドを連れて歩いてると羨望の眼差しで見られるんだよ」

 

などと言っていた割に、私を含めた日本人の女の子を誰一人として口説こうとせず、誰ともお喋り友達以上の関係にはならなかった。

中華街でばったり遭遇することがあっても、いつも男友達と一緒に歩いていたように思う。

当時は気づかなかったが、もしかすると彼はゲイだったのかもしれない。

 

あの頃の香港は、丁度イギリスから中国へ返還されようとしており、そのことで香港人は絶えず不安を口にしていた。

ケイシーも、「いざとなったら国へ帰らなくてもいいように」とポルトガルのパスポートを用意しており、見せてもらったことがある。

何がどうなれば生粋の香港人のケイシーがEU加盟国のパスポートを手に入れられるのか分からなかったが、世の中には知らなくていいこともあるので細かいことは敢えて聞かずにいた。

 

このところ香港情勢のニュースを見ない日はないけれど、彼があのパスポートを役立たせ、自由に生きられる国のどこかで今も元気に暮らしていると思いたい。

 

中国に返還後の香港は変わり、その映画界も変わってしまった。

ウォン・カー・ウァイの新作もいつしか話題にならなくなり、私も古い作品以外に香港映画は見なくなって久しい。

時が過ぎれば時代が変わり、人が変わり、世界が変わる。

あらゆるものが変わりゆくなかで、変わらないのは若者たちの傷つきやすさと、不器用さと、血しぶくほどの熱さと激しさだけなのである。

 


 

画像引用:内閣府「日本の離島の現況

 

【著者】マダムユキ

ネットウォッチャー。

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

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